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さまざまな民族の密儀に参入した者は、ある意味で同一のことを体験しました。苦しみを受け、3日間の仮死状態に到って、精神が身体から離れて神霊世界におもむいたあと、精神はふたたび身体のなかに戻りました。身体のなかに戻った精神は、神霊世界で体験したことを思い出せました。秘儀参入者は、神霊世界の秘密を告げる使者として登場しました。精神がしばらくの間物質的身体から離れて、死に到るのが秘儀参入でした。

身体から離れて神霊世界に滞在したあと、物質的身体のなかに戻ってきて、神的な秘密の使者になるのが秘儀参入でした。入念な準備ののち、物質的身体という道具を用いずに3日半のあいだ生きることができるように心魂の力が鍛えられたのちに、秘儀参入は遂行されました。3日半ののち、参入者は物質的身体に結び付かねばなりませんでした。通常の生活から離れて高次世界に移ることによって、秘儀を体験したのです。(マルコ福音書講義P120)


私が今日、「ルシファー的な時代」として描き出した古代まで時間を遡ってみましょう。当時は誰が支配者のタイプだったのでしょうか。秘儀参入者です。エジプトのファラオも、バビロニアの支配者も、アジアの支配者も、すべて秘儀参入者でした。(悪の秘儀P123)


秘儀参入にはさまざまな段階があります。たとえば、東洋の或る秘儀(ミトラ教)においては、七段階が区別され、その各々が象徴的な名前で呼ばれていました。

第一に「烏(からす)」の段階、第二には「隠者」の段階、第三は「戦士」の段階、第四は「獅子」の段階です。第五段階は民族に応じて、それぞれにふさわしい民族名が用いられています。たとえばペルシア人の場合、第五段階の秘儀参入者は「ペルシア人」と呼ばれます。これらの名称の意味するところは、以下の通りです。

第一段階の秘儀参入者は、オカルト的な生活と外的な生活を仲介するために、あちこちに派遣されます。この段階の人物は、まだ外的な生活に身を捧げていなければなりません。そしてそこで探知した事柄を秘儀の場で報告しなければなりません。ですから、外から内へ何ごとかが伝えられねばならないとき、「烏」がその伝達の役割を果たすのです。どうぞ予言者エリアの烏やヴォータンの烏のことを思い出して下さい。バルバロッサの伝説にも、烏が出てきます。これらの烏は、外へ出ていくときが来たかどうかを、知らせなければなりません。

第二段階の秘儀参入者は、すでにまったくオカルト的な生活を送っていました。第三段階の人は外へ向かってオカルト的な事柄を主張することが許されました。つまり「戦士」の段階は、戦う人を意味するのではなく、オカルト的な教義を擁護することが許された人のことなのです。

「獅子」の人は、オカルト的な生活を自分の中に実現する人のことです。オカルト的な内容を言葉で擁護することが許されているだけでなく、行為によっても、つまり魔術的な行為によっても、そうすることが許された人のことなのです。第六段階は「日の英雄」、第七段階は「父」の段階なのですが、ここでは第五段階が問題になります。

古代人は共同体の中で生きていました。みずからの自我を体験するときも、その自我を集合魂の一員であると感じました。しかし第五段階の秘儀参入者は、自分の人格を捨て、みずからの中に民族の本性を全面的に受け入れるという供犠を捧げた人なのです。

他の人が自分の魂を民族魂の中で感じたように、この秘儀参入者は民族魂を自分の魂の中に受け入れたのです。自分の人格を問題にせず、個人を超えた民族霊のみを生かそうとしたのです。ですからこの秘儀参入者は、民族の名前で呼ばれました。
(「ヨハネ福音書講義」P102-P104)
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カラス、からす、烏


みんながどんなことも自分で判断できると思っている限り、何が正しく、何が間違っているかを評価する権利が自分にはあると思っています。しかし、そう思っている限り、私たちの文化が超感覚的認識の道の第一段階である「からす」の段階に私たちを導くことは決してありません

「からす」とは秘儀の言葉で、無私の人、安易に判断しないように努める人のことなのですがら。

とはいっても、自分の判断をにぶらせよ、と言っているのではありません。ただ安易に判断するのを控えるのです。「からす」とは、人や物についての自分の考えを大事にしたいとは思わずに、人や物についてのほかの人の考えをもっとよく知りたい、と思える人のことです。ですから、ほかの人の魂の中に沈潜して、ほかの人にとっての大切なことをよく理解したい、と思う人が「からす」なのです。

そうすることができる人は、この第一段階に達したのです。このこともまた、偏見の中で生きているのでない限りは、難しいことではありませんが、近代文明の中に生きている人にとっては難しいことです。ですから、まず、批判することを差し控えなければなりません。


「からす」はペルシアのミトラ秘儀の第一段階です。高次の秘儀参入者たちはみな、この段階を通ったのです。その人たちはまず、どんな人の魂の中にも沈潜して、なぜある人はこういうことをし、別な人は別のことをするのかを理解しなければなりませんでした。

どうぞ、まわりを見てください。ある人はこうやり、別の人は別のやり方をします。人は口ぐちにこう言います、「彼はこんなことをしてしまったが、そうするべきではなかったのだ」。

しかし問題は、ある人のしたことに上から目線で判定を下すことではありません。そうしないで、その人の内面を理解しようとする人が「からす」なのです。そういう人は、どんな人の魂の中にも、先入見なしに、動機を見出そうとするにちがいありません。

「からす」については、こういう言い方もされました。「彼はからすたちを派遣する」。キュフホイザー伝説の中で「赤ひげ皇帝(フリードリヒ・バルバロッサ)がからすたちを派遣したと言われいることの中には、このことが余韻のように響いています。

この場合は、皇帝自身が介入すべきかどうかを、からすの報告によって確認しようとしています。人びとの心を「理解する」ためにです。このことは高次の意味では、忍耐して待つことに通じます。厳しい、思い切った、自分本位のやり方を通す人は、見霊能力に到りません。その態度は待ちきれずに成功を求める人と同じです。そういう虚栄心から来る努力のすべて、好奇心のすべてに敏感であって下さい。虚栄心と結びついた好奇心はすべて、蒸気釜の熱が外へ流れ出るように流れ出ていきます。そして、それによって必要な力が失われます。このことを根本原則だと思って下さい。

自分の好奇心を、自分本位の立場で満足させようとする瞬間に、自分の力が消耗していきます。その力を自分のもとに留めおくなら、その力を高次の認識に変えることができます。もっぱら好奇心で見たいと思ったものを一度だけでも見ないで済ますなら、その力が貯えられます。自分のもとに留まったその力は失われることがありません。言いたいことを言わずに済ますときも、同様です。

どこかで何かが語られますと、まわりにその話が伝わります。それが通常の在り方です。しかし、ただ虚栄心からまわりの人にその話をするのであってはなりません。よく言葉を選んで、言うべきことだけを言うのでなければなりません。このことを原則として受け取るのは、超感覚的な霊視力を発達させる条件の一つです。このことは、霊視力のある者の経験です。まったく非本質的なことであっても、自分をよく見せるためにそれを人に伝えたがる人は、霊視力を発達させることはできません。自分本位の虚栄心で話したくなる衝動を克服することができたときにのみ、私たちは自分の中に力を貯えるのです。

このこと自体は、そうしようと思えば、容易にそうすることのできる態度です。けれども、そうすることに意味があるとは思えないので、わずかな人だけにしか実行されていません。大切なのは、特別の訓練をすることなのではなくて、日常生活の中で私たちの内部を深めていくことなのです。そうすることで私たちは、秘儀学級の第二の段階に、「隠れた人」の段階に上がります。

どの言葉を発するときも、その言葉が人を傷つけるかどうかを検討する人、絶えず検討することで、人の心を傷つけることがなくなった人、自己中心的になることなく語る人、それが第二の「隠れた人」の在りようです。その人は、自分のどんな手の動き、どんな言い方にも慎重に配慮して、そうすることで誰をも傷つけることなく生きることで、第二の段階に達することができました。しかし、そうなったとしても、自分は他の人の魂の内部に入っていける、今なら人に教えさとすことができる、と思ってはなりませんでした。なぜなら、霊的な何かを教えさとす人、教師であろうとする人、権威的であろうとする人になるには、第三の段階である「戦士」の域に達することができなければなりませんから。

そのことは、『途上の光』の第二章「戦士」のところに述べられています。第一章はすべての人のために、この第二章は一緒にいる人びとに何かを伝えようとする人のために書かれています。しかしある意味では、すべての人のためにも書かれています。なぜならどんな人も、一緒にいる人びとに何かを伝えるべきだからです。第二章の諸規則に従う人だけが、自分の語る言葉が正しく受けとられる、と期待できます。どんな神智学の教師も、次の根本命題に従うことなく、教えさとしてはならないのです。

1 来たるべき戦いに参加せよ。そのときお前は「戦士」でなくても、戦わなければならない

2 お前の内なる「戦士」に向き合え。お前の「戦士」を戦わせよ。

3 戦うときにはその「戦士」の指示を待て。その指示に従え。

戦いに参加するのを嫌い、自分の中に引きこもる人は決して「戦士」になれません。

高次の内的進歩にとっての最大の敵は、人の心を配慮せずに、虚栄心でおしゃべりすることです。言葉が必要になるときまで、人がその言葉を聞こうとするときまで待つ代わりに、ただ語るために語っていると、つい誘惑の手に落ちてしまいます。

真の神智学徒、神秘家は、誘惑を避けようとはしません。誘惑がやってくるままにしておきます。誘惑の只中で、自分の内なる声に従うのです。人が教師になるや否や、人の前に立たなければなりません。どんな小さな誘惑でさえ、その誘惑の手に落ちると、その人の力は消耗し、熱が蒸気釜の外へ漏れ出るように、外へ流れ出てしまいます。しかしどんなに小さな、意味のない誘惑にでも、それに対抗できたときには、「戦士」としての力を自分の中に貯え、その力を有効に働かせるでしょう。

以上に述べた手段によって、いつもならば失ってしまうものを貯えていくなら、気づくことなく、その力がしだいに内なる視力を獲得できるようにしてくれるのです。(「シュタイナーの瞑想法3」16-P21)
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平安朝というのは非常に大温暖期だった。中国やヨーロッパの大陸を調べても、ものすごく暖かかった。これは、この頃北半球全体が暖かくて、次の鎌倉時代はまたものすごく寒くなっている。

この平安朝のときは、京都で布団を敷かずに住んでいられたというほど暖かかったし、諏訪湖は百年以上凍っていなかったらしい記録もある。

そういうことで、日本全体が暖かかった。

また中国の歴史を調べても、唐の時代は非常に暖かかった。その前の前漢と後漢の間は大寒冷期だった。(『古代日本正史』P525)

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今年の夏も大変暑い。

気候変動はもっぱら二酸化炭素のせいだとオーソリティー側は宣伝し、そういう指導が学校教育現場にも「教科書」になって入り込んでいるので、利口な子から順番に「同じようにオウム返し」するようになっていく。

1924年、つまり100年前のヨーロッパでは、やはり気候変動が話題になっていたことをシュタイナーの『自然と人間の生活』を読んで知った。

そのときは温暖問題ではなく、寒冷問題がヨーロッパ人の関心事だった。

シュタイナーは「寒気は地球外の星位と関係している」と書いている。

また太古より地球は浮かんだり沈んだりしているとも語っている。大陸が浮上すると寒冷化し、沈降すると温暖化する、と。

直近の地球の浮沈運動において、もっとも大陸が低かったのが1250年だったと述べている。

『古代日本正史』の著者原田常治氏は、独自に過去の地球の気候の変化についての本を出しているが、『古代日本正史』の中で、「日本の平安時代は大変に暖かい時代だった」と書いている。「冬の京都において、かけぶとんが必要ないほどだったというような記録が残されている」と。

地球上の大陸は広範囲に広がっているので、全大陸でなくとも、ある大陸の浮沈は地球全体の平均気温にも影響を及ぼすだろう。

近年、エベレストの高さが修正されたという記事がネット上に出た。

そこで不思議に思った。記録が修正されたのは「測量ミス」が原因だったのだろうか。たとえばユーラシア大陸全体が平均して50cm上がったり下がっったりしたら、そのとき反射される熱量はどれほどのものになるだろう。

海水面が上がっているように見える地域が実際には陸地側が下がっている場合だってあるに違いない。そもそも現代の自然科学は大陸全体の浮沈を正確に計測できる技術を持っているのだろうか?

ウェゲナーが大陸移動説を出したとき、世界の学者が嘲笑して、ついにウェゲナーは生きている間に名誉を回復することができなかった。

大陸の「水平移動説」はすでに認知され世界中の人々が、そのことを学習する。けれども大陸の「上下移動説」は、まったく話題にさえされない。

大陸がゆっくりと浮いたり沈んだりを繰り返していることが、地球の気温の変化の「最大要因」だとしたら、科学の名のもとに「各国の経済活動・生産活動」に口をはさみ、世界中の主権国家の「国家予算」の使い方に口を出して「統制」しようとしている勢力の罪は重い。

世界の諸国民は、公共の福祉のために使われるべき「正しいお金の使い方」を阻まれている。近年は、流行病を「世界問題」にすることで、また「各主権国家の判断」を自分たちの都合のいいようにコントロールしようとしているというのが、「世界問題」の真実の姿なんだろうか。

「世界問題」くらいうさんくさいものはない。

ちなみにシュタイナーは6000年後にはまたヨーロッパではないが氷河期がやってくると語っている。全大陸が「均等に浮沈している」のではなくて、ばらつきがあるのだろう。

他の大陸にくらべて、より浮上していっている(高くなっている)大陸が現れるということだろう。そのときは、その大陸を中心にして地球が氷河期に入るのだろう。


古代の神話や伝説は、古代の見霊意識が霊界の中に見た事柄を感覚界の出来事に置き換えて物語ったものであり、ときには本質的に秘儀の経過の再現に他ならないのです。(ルドルフ・シュタイナー『イエスを語る』P211)

古代においては、秘儀への参入者は三日半の間、仮死状態に置かれました。そして、小さな部屋、墓のようなもののなかに置かれました。そうして、死の眠りの状態にやすらいだのです。あるいは、両手を伸ばして十字架にくくりつけられました。そのようにして、霊的な状態に入っていったのです。(ルドルフ・シュタイナー『黙示録の秘密』P29)


古代の秘儀参入者たちは霊界で、天使階級、大天使階級の存在と交流できる人々だった。地上の人間にとっては「神(天使や大天使)」と等しき存在たちのいる領域へ昇ることができたので、たとえば古代の日本では彼らを同じように「神」と呼んで敬い区別したのだのだった。

ヤマトが国家として動き出したとき、統率者としての資格を持つ者は「おおきみ」と呼ばれた。

記紀の物語の中で神武天皇が故郷離脱(秘儀参入の発意)から即位(秘儀参入の成就)まで長い年月をかけたことが描かれているのは、第五段階の秘儀参入に至るまでの過程を描いているからだ。第一段階の烏の位階から始めて、第二段階隠者、第三段階戦士、第四段階獅子と位階を登っていく。物語の中で神武天皇は位階を象徴する様々な人物と遭遇する。それは彼がその段階を通過したことを示す符丁でもあった。

秘儀の七段階のうちの、第五段階の秘儀参入者だった彼らや彼女らは「天使(民族霊)の位階」まで上昇することができ、秘儀の成就者として自分の名前の前に民族名の「ヤマト」を置くことが許された。その片鱗は記紀などに出てくる諡号(おくりな)からうかがい知ることができる。倭姫命(ヤマトヒメノミコト)と呼ばれる女性の物語が伝わっているが、「倭姫命」は「人名」すなわち「固有名詞」ではない。実際には「倭(〇〇〇)姫命」のうち〇〇〇の部分に秘儀に参入した女性の人名が入っていたのだ。「おおきみ」を名乗る資格を持つ者である。秘儀参入候補者が旅をする(場所を転々とする)のは、修行者として「特定の過程」を経ていかなければならなかったことの暗示でもある。

大化の改新以降、第五段階の秘儀参入者としての「おおきみ」の名前が廃され、中国式の統治思想によって男系の血族が王位を継ぐようになったのは、古代シナの政治制度がそのような思想で営まれていたのを真似たからである。もちろん、7世紀当時、古代の大和民族の霊界参入能力も他の世界の民族同様すでに失われていた。


「サニワ」という言葉が神功皇后の項にでてくるが、当時隔世遺伝的に霊界と交流できる「残り火(霊力)」を有する者たちであっても、それは「退化した力」の行使だったのであり、すでに当時の大和民族の代表者たちの多くが、天使や大天使のいる世界にまで上昇できなくなっており、認知できるのは低級な霊的存在ばかりになってしまっていたからだった。そしてついに、そのような秘儀参入的な方法とは異なった霊媒的な能力も民族の統治層から失われ、「秘儀参入の物語」として伝承(神話)が書き物となって後の世に残されたのだった。

もはや古代の先祖たちと同じことをしても、実際には何も起こらない時代になっていた。

かつて秘儀の第六段階を成就した者は「あまてらす」と呼ばれた。彼や彼女は大天使(日光)の位階にまで上昇することができた。記紀に登場してくる天照大神の岩戸隠れの物語は、秘儀の様子を神話的に描いたものだった。物語にも描かれているように、実際に「秘儀の神殿(洞窟)」の前では、「神の帰還」を待つ者たちによって、宴の準備がなされ、帰還後は盛大な宴が行われたのだろう。

ヤマトタケルノミコトという人名も固有名詞ではない。ヤマト(〇〇〇)タケルノミコトである。この名前は第七の秘儀を描いた物語だったのであり、権天使(父)の位階の成就者の物語だった。しかし実際には古代の大和民族に第七の位階の秘儀を成就した者はいない。ただ秘儀に関する「秘密の知識」だけは、当時存在したその筋の人々によって保持されてきたから、記紀の編纂の際に付け加えられ、今日「悲劇の物語」として現代日本人もその片鱗に触れることができるのだった。

現代の神社文化は、古代の秘儀参入の伝統が途絶えたあとに、むしろその秘密を覆い隠すようにして上書きをほどこした者たち、大化の改新以後力を振った当時の中国閥勢力が日本に持ち込んだ思想と技法との混合体だとみなされるべきだと思う。

復興されるべきは「秘儀参入思想」であって、民族的利己主義による地上の富と利権の取り合いあるいは天災の恐怖による地上の安寧の喪失不安に同胞を駆り立てることでは、もちろんない。すべての民族から失われている秘儀参入思想をともに復興させることである。




以上、「人智学の光に照らされた日本神話の読み方」についての覚書である。
人智学ではおなじみの人間の四つの構成といえば、肉体、エーテル体、アストラル体、自我だけど、これらを、四つのレイヤー、あるいは周波数帯という「比喩」を使ってイメージ化してみるとどうだろう?

以下引用。



アストラル体に進入し、人間から自由を奪う存在は魔(デーモン)と呼ばれています。人間のアストラル体は絶えず魔に浸透されています。人間の真正な思考、誤った思考から作り出されるものが、徐々に魔へと成長していきます。善良な思考から生まれ出た善良な魔もいます。邪悪な思考、とくに、不正な、虚偽の思考から生まれ出た魔は、恐ろしい、厭わしい姿をしていて、いわば、アストラル体を買収するのです。

エーテル体に浸透するのが妖怪(スペクトル)、幽霊(ゲシュペンスト)です。私たちはこのような存在から自由にならねばなりません。肉体に進入するのは幻影(ファントム)です。この三つのほかに、自我を行き来するのが霊(ガイスト)です。自我自身も霊です。

魔がアストラル体に、幽霊がエーテル体に、幻影が肉体に働きかけているのがわかります。これらの存在すべては私たちと密接な関係を有し、再受肉する際に私たちに近づいてこようとします。(『薔薇十字会の神智学』P87-P88)


自我のレイヤーには他の自我が侵入し、アストラル・レイヤーには魔物(デーモン)、エーテル・レイヤーには妖怪(スペクトル)・幽霊(ゲシュペンスト)、肉体レイヤーには幻影(ファントム)が侵入する。

シュタイナーはこのようなおおまか四種の「行き交うモノ」について語ってくれているのに、世界は相変わらず、われわれが体験しているモノノケに関して明確な区別をつけることができずにいる。

われわれがYouTubeなどで出会ういわゆる「霊感のある人」とか「霊能者」とか言う人々も、実際には「何かを体験できていても、それが全体性のなかのどの位置を示す体験なのか」を明確に自己認識することができずにいる。

シュタイナーのいうところの「秘儀参入者」ではないからである。






世間で言うところの、いわゆる「心霊体験」「怪談」なぞが扱っている領域は上図の赤い枠で囲んだ領域の話だし、お祓いをしたり、死者のメッセージを伝えたりする人々の仕事は霊媒的な領域に留まっている。

視力検査で、一番上の大きなC文字しか認識力できない人と一番下のC文字まで認識できる人が「物理空間」にいるように、「霊界からくる象徴イメージ」を読み取る能力には「個人差」が存在するのである。


プロフィール
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薔薇十字の瞑想者
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男性
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