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秘儀の位階、八咫烏、日本のカラス(アプレンティス)
カラス、からす、烏


みんながどんなことも自分で判断できると思っている限り、何が正しく、何が間違っているかを評価する権利が自分にはあると思っています。しかし、そう思っている限り、私たちの文化が超感覚的認識の道の第一段階である「からす」の段階に私たちを導くことは決してありません

「からす」とは秘儀の言葉で、無私の人、安易に判断しないように努める人のことなのですがら。

とはいっても、自分の判断をにぶらせよ、と言っているのではありません。ただ安易に判断するのを控えるのです。「からす」とは、人や物についての自分の考えを大事にしたいとは思わずに、人や物についてのほかの人の考えをもっとよく知りたい、と思える人のことです。ですから、ほかの人の魂の中に沈潜して、ほかの人にとっての大切なことをよく理解したい、と思う人が「からす」なのです。

そうすることができる人は、この第一段階に達したのです。このこともまた、偏見の中で生きているのでない限りは、難しいことではありませんが、近代文明の中に生きている人にとっては難しいことです。ですから、まず、批判することを差し控えなければなりません。


「からす」はペルシアのミトラ秘儀の第一段階です。高次の秘儀参入者たちはみな、この段階を通ったのです。その人たちはまず、どんな人の魂の中にも沈潜して、なぜある人はこういうことをし、別な人は別のことをするのかを理解しなければなりませんでした。

どうぞ、まわりを見てください。ある人はこうやり、別の人は別のやり方をします。人は口ぐちにこう言います、「彼はこんなことをしてしまったが、そうするべきではなかったのだ」。

しかし問題は、ある人のしたことに上から目線で判定を下すことではありません。そうしないで、その人の内面を理解しようとする人が「からす」なのです。そういう人は、どんな人の魂の中にも、先入見なしに、動機を見出そうとするにちがいありません。

「からす」については、こういう言い方もされました。「彼はからすたちを派遣する」。キュフホイザー伝説の中で「赤ひげ皇帝(フリードリヒ・バルバロッサ)がからすたちを派遣したと言われいることの中には、このことが余韻のように響いています。

この場合は、皇帝自身が介入すべきかどうかを、からすの報告によって確認しようとしています。人びとの心を「理解する」ためにです。このことは高次の意味では、忍耐して待つことに通じます。厳しい、思い切った、自分本位のやり方を通す人は、見霊能力に到りません。その態度は待ちきれずに成功を求める人と同じです。そういう虚栄心から来る努力のすべて、好奇心のすべてに敏感であって下さい。虚栄心と結びついた好奇心はすべて、蒸気釜の熱が外へ流れ出るように流れ出るように流れ出ていきます。そして、それによって必要な力が失われます。このことを根本原則だと思って下さい。

自分の好奇心を、自分本位の立場で満足させようとする瞬間に、自分の力が消耗していきます。その力を自分のもとに留めおくなら、その力を高次の認識に変えることができます。もっぱら好奇心で見たいと思ったものを一度だけでも見ないで済ますなら、その力が貯えられます。自分のもとに留まったその力は失われることがありません。言いたいことを言わずに済ますときも、同様です。

どこかで何かが語られますと、まわりにその話が伝わります。それが通常の在り方です。しかし、ただ虚栄心からまわりの人にその話をするのであってはなりません。よく言葉を選んで、言うべきことだけを言うのでなければなりません。このことを原則として受け取るのは、超感覚的な霊視力を発達させる条件の一つです。このことは、霊視力のある者の経験です。まったく非本質的なことであっても、自分をよく見せるためにそれを人に伝えたがる人は、霊視力を発達させることはできません。自分本位の虚栄心で話したくなる衝動を克服することができたときにのみ、私たちは自分の中に力を貯えるのです。

このこと自体は、そうしようと思えば、容易にそうすることのできる態度です。けれども、そうすることに意味があるとは思えないので、わずかな人だけにしか実行されていません。大切なのは、特別の訓練をすることなのではなくて、日常生活の中で私たちの内部を深めていくことなのです。そうすることで私たちは、秘儀学級の第二の段階に、「隠れた人」の段階に上がります。

どの言葉を発するときも、その言葉が人を傷つけるかどうかを検討する人、絶えず検討することで、人の心を傷つけることがなくなった人、自己中心的になることなく語る人、それが第二の「隠れた人」の在りようです。その人は、自分のどんな手の動き、どんな言い方にも慎重に配慮して、そうすることで誰をも傷つけることなく生きることで、第二の段階に達することができました。しかし、そうなったとしても、自分は他の人の魂の内部に入っていける、今なら人に教えさとす人、教師であろうとする人、権威的であろうとする人になるには、第三の段階である「戦士」の域に達することができなければなりませんから。

そのことは、『途上の光』の第二章「戦士」のところに述べられています。第一章はすべての人のために、この第二章は一緒にいる人びとに何かを伝えようとする人のために書かれています。しかしある意味では、すべての人のためにも書かれています。なぜならどんな人も、一緒にいる人びとに何かを伝えるべきだからです。第二章の諸規則に従う人だけが、自分の語る言葉が正しく受けとられる、と期待できます。どんな神智学の教師も、次の根本命題に従うことなく、教えさとしてはならないのです。

1 来たるべき戦いに参加せよ。そのときお前は「戦士」でなくても、戦わなければならない

2 お前の内なる「戦士」に向き合え。お前の「戦士」を戦わせよ。

3 戦うときにはその「戦士」の指示を待て。その指示に従え。

戦いに参加するのを嫌い、自分の中に引きこもる人は決して「戦士」になれません。

高次の内的進歩にとっての最大の敵は、人の心を配慮せずに、虚栄心でおしゃべりすることです。言葉が必要になるときまで、人がその言葉聞こうとするときまで待つ代わりに、ただ語るために語っていると、つい誘惑の手に落ちてしまいます。

真の神智学徒、神秘家は、誘惑を避けようとはしません。誘惑がやってくるままにしておきます。誘惑の只中で、自分の内なる声に従うのです。人が教師になるや否や、人の前に立たなければなりません。どんな小さな誘惑でさえ、その誘惑の手に落ちると、その人の力は消耗し、熱が蒸気釜の外へ漏れ出るように、外へ流れ出てしまいます。しかしどんなに小さな、意味のない誘惑にでも、それに対抗できたときには、「戦士」としての力を自分の中に貯え、その力を有効に働かせるでしょう。

以上に述べた手段によって、いつもならば失ってしまうものを貯えていくなら、気づくことなく、その力がしだいに内なる視力を獲得できるようにしてくれるのです。(「シュタイナーの瞑想法3」16-P21)
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