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古代の神話や伝説は、古代の見霊意識が霊界の中に見た事柄を感覚界の出来事に置き換えて物語ったものであり、ときには本質的に秘儀の経過の再現に他ならないのです。(ルドルフ・シュタイナー『イエスを語る』)


古代の秘儀参入者たちは霊界で、天使階級、大天使階級の存在と交流できる人々だった。地上の人間にとっては「神(天使や大天使)」と等しき存在たちのいる領域へ昇ることができたので、たとえば古代の日本では彼らを同じように「神」と呼んで敬い区別したのだのだった。

ヤマトが国家として動き出したとき、統率者としての資格を持つ者は「おおきみ」と呼ばれた。

記紀の物語の中で神武天皇が故郷離脱(秘儀参入の発意)から即位(秘儀参入の成就)まで長い年月をかけたことが描かれているのは、第五段階の秘儀参入に至るまでの過程を描いているからだ。第一段階の烏の位階から始めて、第二段階隠者、第三段階戦士、第四段階獅子と位階を登っていく。物語の中で神武天皇は位階を象徴する様々な人物と遭遇する。それは彼がその段階を通過したことを示す符丁でもあった。

秘儀の七段階のうちの、第五段階の秘儀参入者だった彼らや彼女らは「天使(民族霊)の位階」まで上昇することができ、秘儀の成就者として自分の名前の前に民族名の「ヤマト」を置くことが許された。その片鱗は記紀などに出てくる諡号(おくりな)からうかがい知ることができる。倭姫命(ヤマトヒメノミコト)と呼ばれる女性の物語が伝わっているが、「倭姫命」は「人名」すなわち「固有名詞」ではない。実際には「倭(〇〇〇)姫命」のうち〇〇〇の部分に秘儀に参入した女性の人名が入っていたのだ。「おおきみ」を名乗る資格を持つ者である。秘儀参入候補者が旅をする(場所を転々とする)のは、修行者として「特定の過程」を経ていかなければならなかったことの暗示でもある。

大化の改新以降、第五段階の秘儀参入者としての「おおきみ」の名前が廃され、中国式の統治思想によって男系の血族が王位を継ぐようになったのは、古代シナの政治制度がそのような思想で営まれていたのを真似たからである。もちろん、7世紀当時、古代の大和民族の霊界参入能力も他の世界の民族同様すでに失われていた。


「サニワ」という言葉が神功皇后の項にでてくるが、当時隔世遺伝的に霊界と交流できる「残り火(霊力)」を有する者たちであっても、それは「退化した力」の行使だったのであり、すでに当時の大和民族の代表者たちの多くが、天使や大天使のいる世界にまで上昇できなくなっており、認知できるのは低級な霊的存在ばかりになってしまっていたからだった。そしてついに、そのような秘儀参入的な方法とは異なった霊媒的な能力も民族の統治層から失われ、「秘儀参入の物語」として伝承(神話)が書き物となって後の世に残されたのだった。

もはや古代の先祖たちと同じことをしても、実際には何も起こらない時代になっていた。

かつて秘儀の第六段階を成就した者は「あまてらす」と呼ばれた。彼や彼女は大天使(日光)の位階にまで上昇することができた。記紀に登場してくる天照大神の岩戸隠れの物語は、秘儀の様子を神話的に描いたものだった。物語にも描かれているように、実際に「秘儀の神殿(洞窟)」の前では、「神の帰還」を待つ者たちによって、宴の準備がなされ、帰還後は盛大な宴が行われたのだろう。

ヤマトタケルノミコトという人名も固有名詞ではない。ヤマト(〇〇〇)タケルノミコトである。この名前は第七の秘儀を描いた物語だったのであり、権天使(父)の位階の成就者の物語だった。しかし実際には古代の大和民族に第七の位階の秘儀を成就した者はいない。ただ秘儀に関する「秘密の知識」だけは、当時存在したその筋の人々によって保持されてきたから、記紀の編纂の際に付け加えられ、今日「悲劇の物語」として現代日本人もその片鱗に触れることができるのだった。

現代の神社文化は、古代の秘儀参入の伝統が途絶えたあとに、むしろその秘密を覆い隠すようにして上書きをほどこした者たち、大化の改新以後力を振った当時の中国閥勢力が日本に持ち込んだ思想と技法との混合体だとみなされるべきだと思う。

復興されるべきは「秘儀参入思想」であって、民族的利己主義による地上の富と利権の取り合いあるいは天災の恐怖による地上の安寧の喪失不安に同胞を駆り立てることでは、もちろんない。すべての民族から失われている秘儀参入思想をともに復興させることである。




以上、「人智学の光に照らされた日本神話の読み方」についての覚書である。
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人智学ではおなじみの人間の四つの構成といえば、肉体、エーテル体、アストラル体、自我だけど、これらを、四つのレイヤー、あるいは周波数帯という「比喩」を使ってイメージ化してみるとどうだろう?

以下引用。



アストラル体に進入し、人間から自由を奪う存在は魔(デーモン)と呼ばれています。人間のアストラル体は絶えず魔に浸透されています。人間の真正な思考、誤った思考から作り出されるものが、徐々に魔へと成長していきます。善良な思考から生まれ出た善良な魔もいます。邪悪な思考、とくに、不正な、虚偽の思考から生まれ出た魔は、恐ろしい、厭わしい姿をしていて、いわば、アストラル体を買収するのです。

エーテル体に浸透するのが妖怪(スペクトル)、幽霊(ゲシュペンスト)です。私たちはこのような存在から自由にならねばなりません。肉体に進入するのは幻影(ファントム)です。この三つのほかに、自我を行き来するのが霊(ガイスト)です。自我自身も霊です。

魔がアストラル体に、幽霊がエーテル体に、幻影が肉体に働きかけているのがわかります。これらの存在すべては私たちと密接な関係を有し、再受肉する際に私たちに近づいてこようとします。(『薔薇十字会の神智学』P87-P88)


自我のレイヤーには他の自我が侵入し、アストラル・レイヤーには魔物(デーモン)、エーテル・レイヤーには妖怪(スペクトル)・幽霊(ゲシュペンスト)、肉体レイヤーには幻影(ファントム)が侵入する。

シュタイナーはこのようなおおまか四種の「行き交うモノ」について語ってくれているのに、世界は相変わらず、われわれが体験しているモノノケに関して明確な区別をつけることができずにいる。

われわれがYouTubeなどで出会ういわゆる「霊感のある人」とか「霊能者」とか言う人々も、実際には「何かを体験できていても、それが全体性のなかのどの位置を示す体験なのか」を明確に自己認識することができずにいる。

シュタイナーのいうところの「秘儀参入者」ではないからである。






世間で言うところの、いわゆる「心霊体験」「怪談」なぞが扱っている領域は上図の赤い枠で囲んだ領域の話だし、お祓いをしたり、死者のメッセージを伝えたりする人々の仕事は霊媒的な領域に留まっている。

視力検査で、一番上の大きなC文字しか認識力できない人と一番下のC文字まで認識できる人が「物理空間」にいるように、「霊界からくる象徴イメージ」を読み取る能力には「個人差」が存在するのである。


「ウルトラQ ダークファンタジー」という番組がかつてWOWOWで放送されていた。

地上波で放送されていたら、もっとちまたの話題にされていたと思うが、今日においても知名度はいまひとつのままだ。

このシリーズ内にはいろいろと私のお気に入りのエピソードが目白押しなのだが(無名時代の堺雅人が登場する「小町」はオススメ)、このブログはシュタイナー関連を扱っているので、その内容からシュタイナーの発言を連想したエピソードの話をしたいと思う。

ここで取り上げたいのは「夢みる石」というエピソードである。監督は「Jホラーの父」と呼ばれるあの鶴田法男だ。

小さな町の住人たちが子供に戻って、かつてやっていた遊びを森の中で楽しそうにやっている。その様子を母の様子を怪しんで後を追いかけてきた少年が目撃して驚嘆するという話である。外から町にやってきた片目に黒い眼帯をした怪しい男が売っている「スター・ドロップ」というキャンディーをなめると、町の大人たちが子供時代の姿に戻ってしまうのだった。スター・ドロップ、つまり「アストラルのしずく」である。

この話を見たとき、「アストラル体は時間を遡行する」というシュタイナーの発言を思い出した。

アストラル体は空間のみを吸収するのではなく、変わった方法で時間も吸収します。アストラル体は、遡行するものを有しているのです。アストラル体は遡行するのです。例を挙げて説明しましょう。

みなさまが五十歳になったとしてみましょう。みなさまのアストラル体のなかには、性的成熟以前の時期へとみなさまをさかのぼらせる力が絶えず活動しています。みなさまはアストラル体のなかで、五十歳の自分を体験するのではありません。

みなさまは、十一歳、十二歳、十三歳、十四歳の自分を体験するのです。アストラル体が遡行することによって、性的成熟以前の時期がみなさまのなかに輝き入るのです。それが、生の秘密です。

わたしたちは物質体、エーテル体とその振動に関してのみ年老いるのです。アストラル体はつねに、若いころの人生の時期へと遡行します。アストラル体においては、私たちは青少年なのです。わたしたちはみな、アストラル体においては青少年なのです。

アストラル体のなかで、わたしたちはつねに遡行的に生きています。いうまでもなく、この遡行的な生は性的成熟以後にはじまるものです。このことを真剣に洞察すると、学齢期の子どもに教えたことが全生涯にわたって維持されるのがわかります。

アストラル体がつねに遡行するので、子どものころに教わったことが全生涯にわたって生きるのです。みなさまが小学校で子どもに教えることは、その子の全生涯に作用するのです。その子が九十歳になっても、小学校で学んだことは作用を続けます。

ですから、人生に対する姿勢を教えることには大きな責任があるのです。「自分がなにをしているのかを知ること」が、責任ある教育者にとって大切なことです。このような人生の関連を知ることによって、自分がなにをしているのかをほんとうに知ることができるのです。(『シュタイナー教育の実践』P137)



「夢見る石」の後半部に、「大人の夢は子供になることだ」というセリフが出てくる。このセリフをシュタイナー的な文脈に「置き替え」て受け取り、「まさにそうなんだよ」という突っ込みを入れて、このエピソードを見終わったということがあったという話である。
シュタイナーは、人体は地球有機体から得るものを土台としているので、ほんのちょっと地球圏を離れただけでも、物質的身体が退縮してしまう、と語っている。


人間の肉体は地球有機体から数キロメートル離されると、切り離した指とおなじように退縮します。人間の肉体が地球に対して独自の存在であると錯誤するのは、指が自由に身体を散歩できないのに対して、人間は地上を自由に歩き回れるからです。 (『秘儀の歴史』P71)

地上数マイルの高さまで上昇すると、人間は、手から切り離された指と同じように、破滅してしまう。(『神秘学概論』ちくま学芸文庫版P91)


物質界においては、人間はより高い標高に移動すれば、それだけますます酸素が薄くなって、ますます正しい呼吸ができなくなるように、エーテル界においても、「真空の宇宙空間には地球人用のエーテル体は存在しない」ので、結論として言ってしまえば、人間は「肉体をともなったまま、太陽系外へ宇宙船で旅をすることはできない」ということだろうか?

「いや、酸素はボンベに詰めて運用できるんだから、エーテル体もボンベに詰めて宇宙へ運べる。宇宙船内をエーテル体で満たす技術を開発すればいい。宇宙人はそういう技術を持っているから地球に外からやってこれるんだ」などと反論する人もいるかもしれないが。

引用個所においては、シュタイナーは「有機体」の話として述べるばかりで、有機体を命あるものたらしめているエーテル体の話には関連付けた話になっていない。

だから、自分としては、シュタイナーは明確に「人間は地球のエーテル圏外に出られない」とは述べていないので、判断に躊躇するところだが、結局そういう結論にならざるを得ないのではないかと推察する。

一方で、「金属は太陽紀に地球外から気体としてやってきた。それが月紀に液体状になり、地球紀に今日見られるような個体として観察されるものに変容した」と語っている。 (『秘儀の歴史』P210)

近代に登場し、ひとつのカテゴリーとしておおいに隆盛を極めたSF、つまりサイエンス・フィクションにおいては、光年単位の旅をしている人類だが、本来の人類にできることは、生命(エーテル体)と結びついていない純然たる鉱物体、つまり機械を作って地球圏外へ飛ばして、調査をすることぐらいが限界だということでもある。

逆に言うと、どこかの物質的惑星において「生命活動」をしている、ということは当然「エーテル体を母星から得ている宇宙人」が、鉱物的手段、つまり金属でできた宇宙船に乗って地球圏を訪問できるのかという話にもなる。

エドガー・ケイシーはリーディングにおいて「本来物質界は生まれてはならないものだった」という趣旨の話をしている。つまり本来物質界は人間の霊が活動する場所として「想定されて」いなかったということだ。人類よりもはるかに「物質的テクノロジー」が進歩した惑星からやってくる知的生命体というコンセプトは(これ自体が蒸気機関の発明や電気を物質界で応用する技術の進歩などなど技術革命との対比イメージのなかで生まれた新しい何かだ)、現在の天使や大天使、あるいはそれ以上の位階の天使族たちが「肉体」と「それにともなう死の体験」をもたずに過ごしてきた事実との対比において、人間が「動物的な肉体」を持っているというのは、すでに一種の精神(霊)の退化現象なのだと見なしてきたのが伝統的な宗教感覚だった。

本来なら第十番目の天使族、「人間天使」として地球の大気圏の中で生をまっとうすべきだった人類がもともとはそうであったように、地球の外から「物質的」に出現する「宇宙人」の本来の生活場所が超越次元(非物質界)にあるのなら、「彼ら」は高度に進化した霊の持ち主たちであろう。

たとえば十字架後のキリストが周囲のエーテル体を集めて自分の体を弟子たちに認識できるように形成したように(それは今日のような形姿に陥る前の本来の人類が持っている力だった)、その惑星の素材を使って「光学現象体」として認識できるように「気を使ってくれている」ということは、あるいはあるかもしれない。

まあ、しかしこれは私の妄想にすぎない。

SFファンをがっかりさせる話である。
皆さん、手仕事をやってますか?






「靴を自分で修繕できないような大学教授は、大学教授たるに値しない」という、単なる確信ではなく、心理学的認識をわたしが語ると、人々は驚きます。自分の靴を修繕できない人間が、存在とか生成とかについて、まともなことを知ることができるでしょうか。

もちろん、これは極端な言い方ですが、今日ではズボンのボタンを縫い付けることができない男性がたくさんいます。手が器用でなければ、哲学についてまともなことを知ることはまったく不可能です。

「よい靴職人にもなれる人のみが、よい哲学者になれる」と、いわねばなりません。哲学の歴史が示しているように、しばしば靴職人が哲学者になっています。(P192)「シュタイナー教育の実践」



ハンドクラフトワーカーであり続けることが、修行者であり続けるための土台の一部であるというのは、おもしろい話ですねえ。

とは言え、シュタイナーの話から「じゃ、私もこれから靴を修理する習慣を持とう」と思うとしたら、もちろん反対はしないですが、「靴職人でなければならない」というわけではもちろんないですよねえ。

ガンプラ・マニアもハンドクラフトワーカーの部類の人でしょう。今世、手足が経験したことがもとになって来世の脳を形成するというのがシュタイナーの主張です。


若いころに、他者の気持ちを察するようにした者は、すべて器用な人間になります。(『シュタイナー教育の基本要素』P100)


例えば、江戸時代、察し合う文化、職人(クラフトワーカー)が敬われた文化、近代に西洋人から「日本人は手先が器用だ」と言われたことなど、案外全部がつながっていそうですねえ。


シュタイナーの講演録を読むと、日本人の対人文化、日本人の気質と呼ばれているものが、秘儀参入のための準備(アストラル体の整序のための修行)として取り上げられている「振る舞い方」とかぶっていると気づかされます。

近代以前の日本人は、そうとは知らずに名前の知れぬ先人たちの薫陶の下で、一種の修行のようなものを「文化」として維持してきた一面があるということですねえ。

けれども、ここでこういう話を採り上げたからと言って、日本人は優秀民族だ、いや残虐劣等種族だ、とかそのような「政治的言説」に加担しようとしているわけではありません。

例えば、日本人は現在、トヨタ系列(遺伝子)の車に乗って、その車が物質界で発揮できる素質に沿って目的地に向かうためにシートに座って、ハンドルを切ります。

「日本人は素晴らしい」とあえて世間で事上げしている人たちは「トヨタの車体生産の歴史と伝統と知恵、そしてそれを生み出してきたトヨタ文化はすばらしい。つまりその車に乗っているオレは優秀な遺伝子の持ち主だし、うぬぼれていいんだ、と思って天狗になる人のようです。(でも、そのようなうぬぼれ感情は、庶民の日常生活とは紐づいていないですし、そうするとかなり「政治的」であり、かつ「商売的」な利得行為のネタの一部門なのでしょう。XやらYouTubeやらの情報(≒感情)拡散&醸成装置がそれで、結局目的は「トム・ソーヤーの壁塗り商売」ですからねえ。日本の場合は特にひどくて、YouTubeのホームとして出てくるサムネイル・ページを俯瞰して見て「あ、スーパーのチラシの〈デザイン〉そっくりだ」と思っている人がいっぱいいることでしょう。

「アセンションしようぜ!」みたいな運動も「車体の心配ばかりしている人」の〈感情〉ーー今の性別・人種・民族・国民等々の立場を代表する、この愛しいペルソナ体(ルシファーの影響下に生み出された特殊な構成体、最終的に解消」(霊化)されるもの、分かりやすく言うと〈今の私〉)を破壊せずに理解に達したいというーーにはヒットするようですしねえ。

「オレの腕時計は200万円もするんだ。オレってすげーだろう」という人と基本は同じに見えますねえ。

まあしかし「事上げしない文化」がいまだに基層にありますから、そのような近代人的俗物性は基本的に「日本人気質」には合わないのも確かですよね。




実際に人類がやってきたのは、ロータリー交差点(霊界:死んで戻りまた出ていく場所)を介した「移籍」による「影響力の相互行使」であり、世界中から人種や民族やらがメジャースポーツチームに入れ代わり立ち代わりして、「今所属しているチーム」のために働いているような、その「もっと壮大な世界」版ですよ。

あまりにもがちがちに「一体化」してしまった人は「車が自分だ。車が骨折した痛い、車の外見が醜い、もっと上位の美しい見た目のトヨタ車に乗りたい。努力すれば、夢は叶うというくせに自分の車は最高速度が120キロまでしか出ない。もっと速くなって優勝したい。なのに夢をあきらめろというのか、車に乗る人生はクソゲーだ」などと「独り言」を言い続けて、その思考態度を持ち続けたまま亡くなってしまいます。臨終の床の中で「ああ、死んだら終わりだなあ、これでオレは無に帰すのか」思いながら。


物質界の秩序とはまったく異なった霊界からやってきた霊(自我)として車のドアを開けてシートに座って、がっちりと体が動かないようにシートベルトを締めてその車を運転している人は、クルマそのものではありませんよねえ。

未来の人たちは「その事実」をきっと今よりももっと強く強く「自然と意識する」ようになるんでしょう。

最高の秘儀参入が「針の穴に駱駝を通す」ほどの困難さなのであれば、せめて瞑想の対象として「針の穴に自分の手で糸を通す試み」をその象徴図として用いようかなあと、今回はトップに掲げてみました。


粘液質的に生きている近代人の記憶庫の中には、連想で呼び出され、瞬時に結びつけることができないような、孤立して存在している概念たちが眠っています。


理解するということは、ある事柄を別な事柄に関係づけることです。この世では一つの事柄を他の事柄に関係づけなければ、何も理解することができません。(P109)「教育の基礎としての一般人間学」


司馬遼太郎がエッセイのなかで語った、あの話、横井小楠が、勝海舟から、米国の政治システムの話を聞いたとき、「ははあ、尭舜の世ですなあ」とすかざず応じて「米国政治は日本と異なり、非世襲式なのか」と「理解」したという話を思い出しますねえ。
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