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器用であること
皆さん、手仕事をやってますか?






「靴を自分で修繕できないような大学教授は、大学教授たるに値しない」という、単なる確信ではなく、心理学的認識をわたしが語ると、人々は驚きます。自分の靴を修繕できない人間が、存在とか生成とかについて、まともなことを知ることができるでしょうか。

もちろん、これは極端な言い方ですが、今日ではズボンのボタンを縫い付けることができない男性がたくさんいます。手が器用でなければ、哲学についてまともなことを知ることはまったく不可能です。

「よい靴職人にもなれる人のみが、よい哲学者になれる」と、いわねばなりません。哲学の歴史が示しているように、しばしば靴職人が哲学者になっています。(P192)「シュタイナー教育の実践」



ハンドクラフトワーカーであり続けることが、修行者であり続けるための土台の一部であるというのは、おもしろい話ですねえ。

とは言え、シュタイナーの話から「じゃ、私もこれから靴を修理する習慣を持とう」と思うとしたら、もちろん反対はしないですが、「靴職人でなければならない」というわけではもちろんないですよねえ。

ガンプラ・マニアもハンドクラフトワーカーの部類の人でしょう。今世、手足が経験したことがもとになって来世の脳を形成するというのがシュタイナーの主張です。


若いころに、他者の気持ちを察するようにした者は、すべて器用な人間になります。(『シュタイナー教育の基本要素』P100)


例えば、江戸時代、察し合う文化、職人(クラフトワーカー)が敬われた文化、近代に西洋人から「日本人は手先が器用だ」と言われたことなど、案外全部がつながっていそうですねえ。


シュタイナーの講演録を読むと、日本人の対人文化、日本人の気質と呼ばれているものが、秘儀参入のための準備(アストラル体の整序のための修行)として取り上げられている「振る舞い方」とかぶっていると気づかされます。

近代以前の日本人は、そうとは知らずに名前の知れぬ先人たちの薫陶の下で、一種の修行のようなものを「文化」として維持してきた一面があるということですねえ。

けれども、ここでこういう話を採り上げたからと言って、日本人は優秀民族だ、いや残虐劣等種族だ、とかそのような「政治的言説」に加担しようとしているわけではありません。

例えば、日本人は現在、トヨタ系列(遺伝子)の車に乗って、その車が物質界で発揮できる素質に沿って目的地に向かうためにシートに座って、ハンドルを切ります。

「日本人は素晴らしい」とあえて世間で事上げしている人たちは「トヨタの車体生産の歴史と伝統と知恵、そしてそれを生み出してきたトヨタ文化はすばらしい。つまりその車に乗っているオレは優秀な遺伝子の持ち主だし、うぬぼれていいんだ、と思って天狗になる人のようです。(でも、そのようなうぬぼれ感情は、庶民の日常生活とは紐づいていないですし、そうするとかなり「政治的」であり、かつ「商売的」な利得行為のネタの一部門なのでしょう。XやらYouTubeやらの情報(≒感情)拡散&醸成装置がそれで、結局目的は「トム・ソーヤーの壁塗り商売」ですからねえ。日本の場合は特にひどくて、YouTubeのホームとして出てくるサムネイル・ページを俯瞰して見て「あ、スーパーのチラシの〈デザイン〉そっくりだ」と思っている人がいっぱいいることでしょう。

「アセンションしようぜ!」みたいな運動も「車体の心配ばかりしている人」の〈感情〉ーー今の性別・人種・民族・国民等々の立場を代表する、この愛しいペルソナ体(ルシファーの影響下に生み出された特殊な構成体、最終的に解消」(霊化)されるもの、分かりやすく言うと〈今の私〉)を破壊せずに理解に達したいというーーにはヒットするようですしねえ。

「オレの腕時計は200万円もするんだ。オレってすげーだろう」という人と基本は同じに見えますねえ。

まあしかし「事上げしない文化」がいまだに基層にありますから、そのような近代人的俗物性は基本的に「日本人気質」には合わないのも確かですよね。




実際に人類がやってきたのは、ロータリー交差点(霊界:死んで戻りまた出ていく場所)を介した「移籍」による「影響力の相互行使」であり、世界中から人種や民族やらがメジャースポーツチームに入れ代わり立ち代わりして、「今所属しているチーム」のために働いているような、その「もっと壮大な世界」版ですよ。

あまりにもがちがちに「一体化」してしまった人は「車が自分だ。車が骨折した痛い、車の外見が醜い、もっと上位の美しい見た目のトヨタ車に乗りたい。努力すれば、夢は叶うというくせに自分の車は最高速度が120キロまでしか出ない。もっと速くなって優勝したい。なのに夢をあきらめろというのか、車に乗る人生はクソゲーだ」などと「独り言」を言い続けて、その思考態度を持ち続けたまま亡くなってしまいます。臨終の床の中で「ああ、死んだら終わりだなあ、これでオレは無に帰すのか」思いながら。


物質界の秩序とはまったく異なった霊界からやってきた霊(自我)として車のドアを開けてシートに座って、がっちりと体が動かないようにシートベルトを締めてその車を運転している人は、クルマそのものではありませんよねえ。

未来の人たちは「その事実」をきっと今よりももっと強く強く「自然と意識する」ようになるんでしょう。

最高の秘儀参入が「針の穴に駱駝を通す」ほどの困難さなのであれば、せめて瞑想の対象として「針の穴に自分の手で糸を通す試み」をその象徴図として用いようかなあと、今回はトップに掲げてみました。


粘液質的に生きている近代人の記憶庫の中には、連想で呼び出され、瞬時に結びつけることができないような、孤立して存在している概念たちが眠っています。


理解するということは、ある事柄を別な事柄に関係づけることです。この世では一つの事柄を他の事柄に関係づけなければ、何も理解することができません。(P109)「教育の基礎としての一般人間学」


司馬遼太郎がエッセイのなかで語った、あの話、横井小楠が、勝海舟から、米国の政治システムの話を聞いたとき、「ははあ、尭舜の世ですなあ」とすかざず応じて「米国政治は日本と異なり、非世襲式なのか」と「理解」したという話を思い出しますねえ。
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