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人間は遠い宇宙へは行けない
シュタイナーは、人体は地球有機体から得るものを土台としているので、ほんのちょっと地球圏を離れただけでも、物質的身体が退縮してしまう、と語っている。


人間の肉体は地球有機体から数キロメートル離されると、切り離した指とおなじように退縮します。人間の肉体が地球に対して独自の存在であると錯誤するのは、指が自由に身体を散歩できないのに対して、人間は地上を自由に歩き回れるからです。 (『秘儀の歴史』P71)

地上数マイルの高さまで上昇すると、人間は、手から切り離された指と同じように、破滅してしまう。(『神秘学概論』ちくま学芸文庫版P91)


物質界においては、人間はより高い標高に移動すれば、それだけますます酸素が薄くなって、ますます正しい呼吸ができなくなるように、エーテル界においても、「真空の宇宙空間には地球人用のエーテル体は存在しない」ので、結論として言ってしまえば、人間は「肉体をともなったまま、太陽系外へ宇宙船で旅をすることはできない」ということだろうか?

「いや、酸素はボンベに詰めて運用できるんだから、エーテル体もボンベに詰めて宇宙へ運べる。宇宙船内をエーテル体で満たす技術を開発すればいい。宇宙人はそういう技術を持っているから地球に外からやってこれるんだ」などと反論する人もいるかもしれないが。

引用個所においては、シュタイナーは「有機体」の話として述べるばかりで、有機体を命あるものたらしめているエーテル体の話には関連付けた話になっていない。

だから、自分としては、シュタイナーは明確に「人間は地球のエーテル圏外に出られない」とは述べていないので、判断に躊躇するところだが、結局そういう結論にならざるを得ないのではないかと推察する。

一方で、「金属は太陽紀に地球外から気体としてやってきた。それが月紀に液体状になり、地球紀に今日見られるような個体として観察されるものに変容した」と語っている。 (『秘儀の歴史』P210)

近代に登場し、ひとつのカテゴリーとしておおいに隆盛を極めたSF、つまりサイエンス・フィクションにおいては、光年単位の旅をしている人類だが、本来の人類にできることは、生命(エーテル体)と結びついていない純然たる鉱物体、つまり機械を作って地球圏外へ飛ばして、調査をすることぐらいが限界だということでもある。

逆に言うと、どこかの物質的惑星において「生命活動」をしている、ということは当然「エーテル体を母星から得ている宇宙人」が、鉱物的手段、つまり金属でできた宇宙船に乗って地球圏を訪問できるのかという話にもなる。

エドガー・ケイシーはリーディングにおいて「本来物質界は生まれてはならないものだった」という趣旨の話をしている。つまり本来物質界は人間の霊が活動する場所として「想定されて」いなかったということだ。人類よりもはるかに「物質的テクノロジー」が進歩した惑星からやってくる知的生命体というコンセプトは(これ自体が蒸気機関の発明や電気を物質界で応用する技術の進歩などなど技術革命との対比イメージのなかで生まれた新しい何かだ)、現在の天使や大天使、あるいはそれ以上の位階の天使族たちが「肉体」と「それにともなう死の体験」をもたずに過ごしてきた事実との対比において、人間が「動物的な肉体」を持っているというのは、すでに一種の精神(霊)の退化現象なのだと見なしてきたのが伝統的な宗教感覚だった。

本来なら第十番目の天使族、「人間天使」として地球の大気圏の中で生をまっとうすべきだった人類がもともとはそうであったように、地球の外から「物質的」に出現する「宇宙人」の本来の生活場所が超越次元(非物質界)にあるのなら、「彼ら」は高度に進化した霊の持ち主たちであろう。

たとえば十字架後のキリストが周囲のエーテル体を集めて自分の体を弟子たちに認識できるように形成したように(それは今日のような形姿に陥る前の本来の人類が持っている力だった)、その惑星の素材を使って「光学現象体」として認識できるように「気を使ってくれている」ということは、あるいはあるかもしれない。

まあ、しかしこれは私の妄想にすぎない。

SFファンをがっかりさせる話である。
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