「ウルトラQ ダークファンタジー」という番組がかつてWOWOWで放送されていた。
地上波で放送されていたら、もっとちまたの話題にされていたと思うが、今日においても知名度はいまひとつのままだ。
このシリーズ内にはいろいろと私のお気に入りのエピソードが目白押しなのだが(無名時代の堺雅人が登場する「小町」はオススメ)、このブログはシュタイナー関連を扱っているので、その内容からシュタイナーの発言を連想したエピソードの話をしたいと思う。
ここで取り上げたいのは「夢みる石」というエピソードである。監督は「Jホラーの父」と呼ばれるあの鶴田法男だ。
小さな町の住人たちが子供に戻って、かつてやっていた遊びを森の中で楽しそうにやっている。その様子を母の様子を怪しんで後を追いかけてきた少年が目撃して驚嘆するという話である。外から町にやってきた片目に黒い眼帯をした怪しい男が売っている「スター・ドロップ」というキャンディーをなめると、町の大人たちが子供時代の姿に戻ってしまうのだった。スター・ドロップ、つまり「アストラルのしずく」である。
地上波で放送されていたら、もっとちまたの話題にされていたと思うが、今日においても知名度はいまひとつのままだ。
このシリーズ内にはいろいろと私のお気に入りのエピソードが目白押しなのだが(無名時代の堺雅人が登場する「小町」はオススメ)、このブログはシュタイナー関連を扱っているので、その内容からシュタイナーの発言を連想したエピソードの話をしたいと思う。
ここで取り上げたいのは「夢みる石」というエピソードである。監督は「Jホラーの父」と呼ばれるあの鶴田法男だ。
小さな町の住人たちが子供に戻って、かつてやっていた遊びを森の中で楽しそうにやっている。その様子を母の様子を怪しんで後を追いかけてきた少年が目撃して驚嘆するという話である。外から町にやってきた片目に黒い眼帯をした怪しい男が売っている「スター・ドロップ」というキャンディーをなめると、町の大人たちが子供時代の姿に戻ってしまうのだった。スター・ドロップ、つまり「アストラルのしずく」である。
この話を見たとき、「アストラル体は時間を遡行する」というシュタイナーの発言を思い出した。
アストラル体は空間のみを吸収するのではなく、変わった方法で時間も吸収します。アストラル体は、遡行するものを有しているのです。アストラル体は遡行するのです。例を挙げて説明しましょう。
みなさまが五十歳になったとしてみましょう。みなさまのアストラル体のなかには、性的成熟以前の時期へとみなさまをさかのぼらせる力が絶えず活動しています。みなさまはアストラル体のなかで、五十歳の自分を体験するのではありません。
みなさまは、十一歳、十二歳、十三歳、十四歳の自分を体験するのです。アストラル体が遡行することによって、性的成熟以前の時期がみなさまのなかに輝き入るのです。それが、生の秘密です。
わたしたちは物質体、エーテル体とその振動に関してのみ年老いるのです。アストラル体はつねに、若いころの人生の時期へと遡行します。アストラル体においては、私たちは青少年なのです。わたしたちはみな、アストラル体においては青少年なのです。
アストラル体のなかで、わたしたちはつねに遡行的に生きています。いうまでもなく、この遡行的な生は性的成熟以後にはじまるものです。このことを真剣に洞察すると、学齢期の子どもに教えたことが全生涯にわたって維持されるのがわかります。
アストラル体がつねに遡行するので、子どものころに教わったことが全生涯にわたって生きるのです。みなさまが小学校で子どもに教えることは、その子の全生涯に作用するのです。その子が九十歳になっても、小学校で学んだことは作用を続けます。
ですから、人生に対する姿勢を教えることには大きな責任があるのです。「自分がなにをしているのかを知ること」が、責任ある教育者にとって大切なことです。このような人生の関連を知ることによって、自分がなにをしているのかをほんとうに知ることができるのです。(『シュタイナー教育の実践』P137)
みなさまが五十歳になったとしてみましょう。みなさまのアストラル体のなかには、性的成熟以前の時期へとみなさまをさかのぼらせる力が絶えず活動しています。みなさまはアストラル体のなかで、五十歳の自分を体験するのではありません。
みなさまは、十一歳、十二歳、十三歳、十四歳の自分を体験するのです。アストラル体が遡行することによって、性的成熟以前の時期がみなさまのなかに輝き入るのです。それが、生の秘密です。
わたしたちは物質体、エーテル体とその振動に関してのみ年老いるのです。アストラル体はつねに、若いころの人生の時期へと遡行します。アストラル体においては、私たちは青少年なのです。わたしたちはみな、アストラル体においては青少年なのです。
アストラル体のなかで、わたしたちはつねに遡行的に生きています。いうまでもなく、この遡行的な生は性的成熟以後にはじまるものです。このことを真剣に洞察すると、学齢期の子どもに教えたことが全生涯にわたって維持されるのがわかります。
アストラル体がつねに遡行するので、子どものころに教わったことが全生涯にわたって生きるのです。みなさまが小学校で子どもに教えることは、その子の全生涯に作用するのです。その子が九十歳になっても、小学校で学んだことは作用を続けます。
ですから、人生に対する姿勢を教えることには大きな責任があるのです。「自分がなにをしているのかを知ること」が、責任ある教育者にとって大切なことです。このような人生の関連を知ることによって、自分がなにをしているのかをほんとうに知ることができるのです。(『シュタイナー教育の実践』P137)
「夢見る石」の後半部に、「大人の夢は子供になることだ」というセリフが出てくる。このセリフをシュタイナー的な文脈に「置き替え」て受け取り、「まさにそうなんだよ」という突っ込みを入れて、このエピソードを見終わったということがあったという話である。
PR
シュタイナーは、人体は地球有機体から得るものを土台としているので、ほんのちょっと地球圏を離れただけでも、物質的身体が退縮してしまう、と語っている。
人間の肉体は地球有機体から数キロメートル離されると、切り離した指とおなじように退縮します。人間の肉体が地球に対して独自の存在であると錯誤するのは、指が自由に身体を散歩できないのに対して、人間は地上を自由に歩き回れるからです。 (『秘儀の歴史』P71)
地上数マイルの高さまで上昇すると、人間は、手から切り離された指と同じように、破滅してしまう。(『神秘学概論』ちくま学芸文庫版P91)
物質界においては、人間はより高い標高に移動すれば、それだけますます酸素が薄くなって、ますます正しい呼吸ができなくなるように、エーテル界においても、「真空の宇宙空間には地球人用のエーテル体は存在しない」ので、結論として言ってしまえば、人間は「肉体をともなったまま、太陽系外へ宇宙船で旅をすることはできない」ということだろうか?
「いや、酸素はボンベに詰めて運用できるんだから、エーテル体もボンベに詰めて宇宙へ運べる。宇宙船内をエーテル体で満たす技術を開発すればいい。宇宙人はそういう技術を持っているから地球に外からやってこれるんだ」などと反論する人もいるかもしれないが。
引用個所においては、シュタイナーは「有機体」の話として述べるばかりで、有機体を命あるものたらしめているエーテル体の話には関連付けた話になっていない。
だから、自分としては、シュタイナーは明確に「人間は地球のエーテル圏外に出られない」とは述べていないので、判断に躊躇するところだが、結局そういう結論にならざるを得ないのではないかと推察する。
一方で、「金属は太陽紀に地球外から気体としてやってきた。それが月紀に液体状になり、地球紀に今日見られるような個体として観察されるものに変容した」と語っている。 (『秘儀の歴史』P210)
近代に登場し、ひとつのカテゴリーとしておおいに隆盛を極めたSF、つまりサイエンス・フィクションにおいては、光年単位の旅をしている人類だが、本来の人類にできることは、生命(エーテル体)と結びついていない純然たる鉱物体、つまり機械を作って地球圏外へ飛ばして、調査をすることぐらいが限界だということでもある。
逆に言うと、どこかの物質的惑星において「生命活動」をしている、ということは当然「エーテル体を母星から得ている宇宙人」が、鉱物的手段、つまり金属でできた宇宙船に乗って地球圏を訪問できるのかという話にもなる。
エドガー・ケイシーはリーディングにおいて「本来物質界は生まれてはならないものだった」という趣旨の話をしている。つまり本来物質界は人間の霊が活動する場所として「想定されて」いなかったということだ。人類よりもはるかに「物質的テクノロジー」が進歩した惑星からやってくる知的生命体というコンセプトは(これ自体が蒸気機関の発明や電気を物質界で応用する技術の進歩などなど技術革命との対比イメージのなかで生まれた新しい何かだ)、現在の天使や大天使、あるいはそれ以上の位階の天使族たちが「肉体」と「それにともなう死の体験」をもたずに過ごしてきた事実との対比において、人間が「動物的な肉体」を持っているというのは、すでに一種の精神(霊)の退化現象なのだと見なしてきたのが伝統的な宗教感覚だった。
本来なら第十番目の天使族、「人間天使」として地球の大気圏の中で生をまっとうすべきだった人類がもともとはそうであったように、地球の外から「物質的」に出現する「宇宙人」の本来の生活場所が超越次元(非物質界)にあるのなら、「彼ら」は高度に進化した霊の持ち主たちであろう。
たとえば十字架後のキリストが周囲のエーテル体を集めて自分の体を弟子たちに認識できるように形成したように(それは今日のような形姿に陥る前の本来の人類が持っている力だった)、その惑星の素材を使って「光学現象体」として認識できるように「気を使ってくれている」ということは、あるいはあるかもしれない。
まあ、しかしこれは私の妄想にすぎない。
SFファンをがっかりさせる話である。
人間の肉体は地球有機体から数キロメートル離されると、切り離した指とおなじように退縮します。人間の肉体が地球に対して独自の存在であると錯誤するのは、指が自由に身体を散歩できないのに対して、人間は地上を自由に歩き回れるからです。 (『秘儀の歴史』P71)
地上数マイルの高さまで上昇すると、人間は、手から切り離された指と同じように、破滅してしまう。(『神秘学概論』ちくま学芸文庫版P91)
物質界においては、人間はより高い標高に移動すれば、それだけますます酸素が薄くなって、ますます正しい呼吸ができなくなるように、エーテル界においても、「真空の宇宙空間には地球人用のエーテル体は存在しない」ので、結論として言ってしまえば、人間は「肉体をともなったまま、太陽系外へ宇宙船で旅をすることはできない」ということだろうか?
「いや、酸素はボンベに詰めて運用できるんだから、エーテル体もボンベに詰めて宇宙へ運べる。宇宙船内をエーテル体で満たす技術を開発すればいい。宇宙人はそういう技術を持っているから地球に外からやってこれるんだ」などと反論する人もいるかもしれないが。
引用個所においては、シュタイナーは「有機体」の話として述べるばかりで、有機体を命あるものたらしめているエーテル体の話には関連付けた話になっていない。
だから、自分としては、シュタイナーは明確に「人間は地球のエーテル圏外に出られない」とは述べていないので、判断に躊躇するところだが、結局そういう結論にならざるを得ないのではないかと推察する。
一方で、「金属は太陽紀に地球外から気体としてやってきた。それが月紀に液体状になり、地球紀に今日見られるような個体として観察されるものに変容した」と語っている。 (『秘儀の歴史』P210)
近代に登場し、ひとつのカテゴリーとしておおいに隆盛を極めたSF、つまりサイエンス・フィクションにおいては、光年単位の旅をしている人類だが、本来の人類にできることは、生命(エーテル体)と結びついていない純然たる鉱物体、つまり機械を作って地球圏外へ飛ばして、調査をすることぐらいが限界だということでもある。
逆に言うと、どこかの物質的惑星において「生命活動」をしている、ということは当然「エーテル体を母星から得ている宇宙人」が、鉱物的手段、つまり金属でできた宇宙船に乗って地球圏を訪問できるのかという話にもなる。
エドガー・ケイシーはリーディングにおいて「本来物質界は生まれてはならないものだった」という趣旨の話をしている。つまり本来物質界は人間の霊が活動する場所として「想定されて」いなかったということだ。人類よりもはるかに「物質的テクノロジー」が進歩した惑星からやってくる知的生命体というコンセプトは(これ自体が蒸気機関の発明や電気を物質界で応用する技術の進歩などなど技術革命との対比イメージのなかで生まれた新しい何かだ)、現在の天使や大天使、あるいはそれ以上の位階の天使族たちが「肉体」と「それにともなう死の体験」をもたずに過ごしてきた事実との対比において、人間が「動物的な肉体」を持っているというのは、すでに一種の精神(霊)の退化現象なのだと見なしてきたのが伝統的な宗教感覚だった。
本来なら第十番目の天使族、「人間天使」として地球の大気圏の中で生をまっとうすべきだった人類がもともとはそうであったように、地球の外から「物質的」に出現する「宇宙人」の本来の生活場所が超越次元(非物質界)にあるのなら、「彼ら」は高度に進化した霊の持ち主たちであろう。
たとえば十字架後のキリストが周囲のエーテル体を集めて自分の体を弟子たちに認識できるように形成したように(それは今日のような形姿に陥る前の本来の人類が持っている力だった)、その惑星の素材を使って「光学現象体」として認識できるように「気を使ってくれている」ということは、あるいはあるかもしれない。
まあ、しかしこれは私の妄想にすぎない。
SFファンをがっかりさせる話である。
皆さん、手仕事をやってますか?
「靴を自分で修繕できないような大学教授は、大学教授たるに値しない」という、単なる確信ではなく、心理学的認識をわたしが語ると、人々は驚きます。自分の靴を修繕できない人間が、存在とか生成とかについて、まともなことを知ることができるでしょうか。
もちろん、これは極端な言い方ですが、今日ではズボンのボタンを縫い付けることができない男性がたくさんいます。手が器用でなければ、哲学についてまともなことを知ることはまったく不可能です。
「よい靴職人にもなれる人のみが、よい哲学者になれる」と、いわねばなりません。哲学の歴史が示しているように、しばしば靴職人が哲学者になっています。(P192)「シュタイナー教育の実践」
ハンドクラフトワーカーであり続けることが、修行者であり続けるための土台の一部であるというのは、おもしろい話ですねえ。
とは言え、シュタイナーの話から「じゃ、私もこれから靴を修理する習慣を持とう」と思うとしたら、もちろん反対はしないですが、「靴職人でなければならない」というわけではもちろんないですよねえ。
ガンプラ・マニアもハンドクラフトワーカーの部類の人でしょう。今世、手足が経験したことがもとになって来世の脳を形成するというのがシュタイナーの主張です。
若いころに、他者の気持ちを察するようにした者は、すべて器用な人間になります。(『シュタイナー教育の基本要素』P100)
例えば、江戸時代、察し合う文化、職人(クラフトワーカー)が敬われた文化、近代に西洋人から「日本人は手先が器用だ」と言われたことなど、案外全部がつながっていそうですねえ。
シュタイナーの講演録を読むと、日本人の対人文化、日本人の気質と呼ばれているものが、秘儀参入のための準備(アストラル体の整序のための修行)として取り上げられている「振る舞い方」とかぶっていると気づかされます。
近代以前の日本人は、そうとは知らずに名前の知れぬ先人たちの薫陶の下で、一種の修行のようなものを「文化」として維持してきた一面があるということですねえ。
けれども、ここでこういう話を採り上げたからと言って、日本人は優秀民族だ、いや残虐劣等種族だ、とかそのような「政治的言説」に加担しようとしているわけではありません。
例えば、日本人は現在、トヨタ系列(遺伝子)の車に乗って、その車が物質界で発揮できる素質に沿って目的地に向かうためにシートに座って、ハンドルを切ります。
「日本人は素晴らしい」とあえて世間で事上げしている人たちは「トヨタの車体生産の歴史と伝統と知恵、そしてそれを生み出してきたトヨタ文化はすばらしい。つまりその車に乗っているオレは優秀な遺伝子の持ち主だし、うぬぼれていいんだ、と思って天狗になる人のようです。(でも、そのようなうぬぼれ感情は、庶民の日常生活とは紐づいていないですし、そうするとかなり「政治的」であり、かつ「商売的」な利得行為のネタの一部門なのでしょう。XやらYouTubeやらの情報(≒感情)拡散&醸成装置がそれで、結局目的は「トム・ソーヤーの壁塗り商売」ですからねえ。日本の場合は特にひどくて、YouTubeのホームとして出てくるサムネイル・ページを俯瞰して見て「あ、スーパーのチラシの〈デザイン〉そっくりだ」と思っている人がいっぱいいることでしょう。
「アセンションしようぜ!」みたいな運動も「車体の心配ばかりしている人」の〈感情〉ーー今の性別・人種・民族・国民等々の立場を代表する、この愛しいペルソナ体(ルシファーの影響下に生み出された特殊な構成体、最終的に解消」(霊化)されるもの、分かりやすく言うと〈今の私〉)を破壊せずに理解に達したいというーーにはヒットするようですしねえ。
「オレの腕時計は200万円もするんだ。オレってすげーだろう」という人と基本は同じに見えますねえ。
まあしかし「事上げしない文化」がいまだに基層にありますから、そのような近代人的俗物性は基本的に「日本人気質」には合わないのも確かですよね。
実際に人類がやってきたのは、ロータリー交差点(霊界:死んで戻りまた出ていく場所)を介した「移籍」による「影響力の相互行使」であり、世界中から人種や民族やらがメジャースポーツチームに入れ代わり立ち代わりして、「今所属しているチーム」のために働いているような、その「もっと壮大な世界」版ですよ。
あまりにもがちがちに「一体化」してしまった人は「車が自分だ。車が骨折した痛い、車の外見が醜い、もっと上位の美しい見た目のトヨタ車に乗りたい。努力すれば、夢は叶うというくせに自分の車は最高速度が120キロまでしか出ない。もっと速くなって優勝したい。なのに夢をあきらめろというのか、車に乗る人生はクソゲーだ」などと「独り言」を言い続けて、その思考態度を持ち続けたまま亡くなってしまいます。臨終の床の中で「ああ、死んだら終わりだなあ、これでオレは無に帰すのか」思いながら。
物質界の秩序とはまったく異なった霊界からやってきた霊(自我)として車のドアを開けてシートに座って、がっちりと体が動かないようにシートベルトを締めてその車を運転している人は、クルマそのものではありませんよねえ。
未来の人たちは「その事実」をきっと今よりももっと強く強く「自然と意識する」ようになるんでしょう。
最高の秘儀参入が「針の穴に駱駝を通す」ほどの困難さなのであれば、せめて瞑想の対象として「針の穴に自分の手で糸を通す試み」をその象徴図として用いようかなあと、今回はトップに掲げてみました。
粘液質的に生きている近代人の記憶庫の中には、連想で呼び出され、瞬時に結びつけることができないような、孤立して存在している概念たちが眠っています。
理解するということは、ある事柄を別な事柄に関係づけることです。この世では一つの事柄を他の事柄に関係づけなければ、何も理解することができません。(P109)「教育の基礎としての一般人間学」
司馬遼太郎がエッセイのなかで語った、あの話、横井小楠が、勝海舟から、米国の政治システムの話を聞いたとき、「ははあ、尭舜の世ですなあ」とすかざず応じて「米国政治は日本と異なり、非世襲式なのか」と「理解」したという話を思い出しますねえ。
「靴を自分で修繕できないような大学教授は、大学教授たるに値しない」という、単なる確信ではなく、心理学的認識をわたしが語ると、人々は驚きます。自分の靴を修繕できない人間が、存在とか生成とかについて、まともなことを知ることができるでしょうか。
もちろん、これは極端な言い方ですが、今日ではズボンのボタンを縫い付けることができない男性がたくさんいます。手が器用でなければ、哲学についてまともなことを知ることはまったく不可能です。
「よい靴職人にもなれる人のみが、よい哲学者になれる」と、いわねばなりません。哲学の歴史が示しているように、しばしば靴職人が哲学者になっています。(P192)「シュタイナー教育の実践」
ハンドクラフトワーカーであり続けることが、修行者であり続けるための土台の一部であるというのは、おもしろい話ですねえ。
とは言え、シュタイナーの話から「じゃ、私もこれから靴を修理する習慣を持とう」と思うとしたら、もちろん反対はしないですが、「靴職人でなければならない」というわけではもちろんないですよねえ。
ガンプラ・マニアもハンドクラフトワーカーの部類の人でしょう。今世、手足が経験したことがもとになって来世の脳を形成するというのがシュタイナーの主張です。
若いころに、他者の気持ちを察するようにした者は、すべて器用な人間になります。(『シュタイナー教育の基本要素』P100)
例えば、江戸時代、察し合う文化、職人(クラフトワーカー)が敬われた文化、近代に西洋人から「日本人は手先が器用だ」と言われたことなど、案外全部がつながっていそうですねえ。
シュタイナーの講演録を読むと、日本人の対人文化、日本人の気質と呼ばれているものが、秘儀参入のための準備(アストラル体の整序のための修行)として取り上げられている「振る舞い方」とかぶっていると気づかされます。
近代以前の日本人は、そうとは知らずに名前の知れぬ先人たちの薫陶の下で、一種の修行のようなものを「文化」として維持してきた一面があるということですねえ。
けれども、ここでこういう話を採り上げたからと言って、日本人は優秀民族だ、いや残虐劣等種族だ、とかそのような「政治的言説」に加担しようとしているわけではありません。
例えば、日本人は現在、トヨタ系列(遺伝子)の車に乗って、その車が物質界で発揮できる素質に沿って目的地に向かうためにシートに座って、ハンドルを切ります。
「日本人は素晴らしい」とあえて世間で事上げしている人たちは「トヨタの車体生産の歴史と伝統と知恵、そしてそれを生み出してきたトヨタ文化はすばらしい。つまりその車に乗っているオレは優秀な遺伝子の持ち主だし、うぬぼれていいんだ、と思って天狗になる人のようです。(でも、そのようなうぬぼれ感情は、庶民の日常生活とは紐づいていないですし、そうするとかなり「政治的」であり、かつ「商売的」な利得行為のネタの一部門なのでしょう。XやらYouTubeやらの情報(≒感情)拡散&醸成装置がそれで、結局目的は「トム・ソーヤーの壁塗り商売」ですからねえ。日本の場合は特にひどくて、YouTubeのホームとして出てくるサムネイル・ページを俯瞰して見て「あ、スーパーのチラシの〈デザイン〉そっくりだ」と思っている人がいっぱいいることでしょう。
「アセンションしようぜ!」みたいな運動も「車体の心配ばかりしている人」の〈感情〉ーー今の性別・人種・民族・国民等々の立場を代表する、この愛しいペルソナ体(ルシファーの影響下に生み出された特殊な構成体、最終的に解消」(霊化)されるもの、分かりやすく言うと〈今の私〉)を破壊せずに理解に達したいというーーにはヒットするようですしねえ。
「オレの腕時計は200万円もするんだ。オレってすげーだろう」という人と基本は同じに見えますねえ。
まあしかし「事上げしない文化」がいまだに基層にありますから、そのような近代人的俗物性は基本的に「日本人気質」には合わないのも確かですよね。
実際に人類がやってきたのは、ロータリー交差点(霊界:死んで戻りまた出ていく場所)を介した「移籍」による「影響力の相互行使」であり、世界中から人種や民族やらがメジャースポーツチームに入れ代わり立ち代わりして、「今所属しているチーム」のために働いているような、その「もっと壮大な世界」版ですよ。
あまりにもがちがちに「一体化」してしまった人は「車が自分だ。車が骨折した痛い、車の外見が醜い、もっと上位の美しい見た目のトヨタ車に乗りたい。努力すれば、夢は叶うというくせに自分の車は最高速度が120キロまでしか出ない。もっと速くなって優勝したい。なのに夢をあきらめろというのか、車に乗る人生はクソゲーだ」などと「独り言」を言い続けて、その思考態度を持ち続けたまま亡くなってしまいます。臨終の床の中で「ああ、死んだら終わりだなあ、これでオレは無に帰すのか」思いながら。
物質界の秩序とはまったく異なった霊界からやってきた霊(自我)として車のドアを開けてシートに座って、がっちりと体が動かないようにシートベルトを締めてその車を運転している人は、クルマそのものではありませんよねえ。
未来の人たちは「その事実」をきっと今よりももっと強く強く「自然と意識する」ようになるんでしょう。
最高の秘儀参入が「針の穴に駱駝を通す」ほどの困難さなのであれば、せめて瞑想の対象として「針の穴に自分の手で糸を通す試み」をその象徴図として用いようかなあと、今回はトップに掲げてみました。
粘液質的に生きている近代人の記憶庫の中には、連想で呼び出され、瞬時に結びつけることができないような、孤立して存在している概念たちが眠っています。
理解するということは、ある事柄を別な事柄に関係づけることです。この世では一つの事柄を他の事柄に関係づけなければ、何も理解することができません。(P109)「教育の基礎としての一般人間学」
司馬遼太郎がエッセイのなかで語った、あの話、横井小楠が、勝海舟から、米国の政治システムの話を聞いたとき、「ははあ、尭舜の世ですなあ」とすかざず応じて「米国政治は日本と異なり、非世襲式なのか」と「理解」したという話を思い出しますねえ。
プロフィール
HN:
薔薇十字の瞑想者
性別:
男性
カテゴリー
最新記事
(10/17)
(10/09)
(07/09)
(02/28)
(02/27)
P R